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自然栽培の田力の米
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 自然栽培米のお届け

【2012年産の新米 出荷開始】

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 いにしえの品種、その野性味が自然栽培でよみがえります。
宮城県色麻町から

【2012年産の新米 出荷開始】

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 自然栽培のササニシキを天日干しにしてみました!おてんとの味わいをお楽しみください。
宮城県色麻町から

【2012年産の新米 出荷開始】

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 でんでんむしむしカタツムリ、自然栽培の六次産業を目指します!
宮城県石巻市和渕から

自然素材の農業資材
工場は津波で流された。だけど竹チッパーは10トン車の下から発掘できました!

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田力ノート

無農薬、無肥料稲作栽培の記録から
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5章 仏教の伝来

・伝来した仏教は、最初に氏族間の私的信仰として受け入れられたが、次に聖徳太子により一切を包容融合する統一的原理として「一大乗」の思想が鼓吹され、そして律令国家を支える鎮護国家仏教となる。

・律令時代の僧は鎮護国家仏教といった体制から、国を権威づける理論の担い手であり、国家官吏とも言える存在であった。

・しかし鎮護国家仏教は財政を負担し、僧侶の堕落により長く続かなかった。

・平安末期から鎌倉時代にかけ、国家の宗教は貴族、武士、民衆の宗教となり、ついに親鸞に代表されるような日本独自の仏教を生み出すに至る。


(権威を下支えするための鎮護国仏教)
 律令制度では氏が神祠官の「権威」により連合し、そして氏の代表が太政官構成して「権威」を担ったと解説した。この体制を強固なものとするため、仏教の「理」が借用されたのではないかと考える。

 そのために「仏の本地はインドで、それが伊勢に垂迹して天照大神となった」とする本地垂迹説により、神仏合一が必要となった。

(権威を下支えするための鎮護国仏教)
 律令の時代、大和朝廷は盛んに蝦夷征伐に励んでいる。いわば異民族を大和国家の体制に組み入れるために力を注いだわけであるが、そもそも蝦夷は神祠官が持つ権威の外に置かれる異民族である。征伐された蝦夷は大和の武力に対して一時的な外面的服従を装うだろうが、彼らは大和文化を背景に成立する神祠官に権威を感じていない。そのために反乱が相次ぐ。

 このように権威なき統治には強大な武力が必要となるが、それは非経済的であるから国家財政を危うくする。この際、効果的なのは民族を越え、「理」を共有できる世界宗教を権威の担保として行う統治である。日本の律令時代では、その「理」を仏教に求めたのではなかったか?

  
【記:平成23年11月3日】


 山本七平著「日本人とは何か。」をテキストに、日本社会及び日本の農村社会の構造を考察しております。テキストを要約した部分を茶文字で、本ブログ著者の所見につていは青文字で記載しております。

| 「日本人とは何か」を読む | 22:49 | comments(0) | - | pookmark |
4章 神話と伝説の世界

・日本人は保守と革新性を併せ持ち、そして移ろい易い性格と頑固な継続性を両立させる。

・律令制は中国から輸入されたが、日本の統治者の正当性は在来の神話に求められる。

・日本は多神教であり、多くの神社がある。それが起請の対象であり、独特の契約集団を構成する。この古い神々を保持した保守性が、日本のおける近代化の素地となった。


(日本における革新と保守の原点)

 太政官は神話からの権威を継承しておらず、いつでも取り替え可能な体制であり、革新的な政治を行うためのよりどころとなる。
 一方で神祗官は神話を引き継ぎ、保守性・継続性を担保し、権威を担保する。それゆえに革新的体制になりえない。
 このように律令制度を受け入れながらも、旧来の伝統的権威は神祗官が保持し、太政官は伝統から分立したことが、日本が近代化を容易に受け入れることができた素地となったと山本七平は分析する。これは太政官(権力)と神祗官(権威)の二権分立である。


(現在も残る契約集団と農村の改革)
 農村に残る契約講は、この章で延べる契約集団と同じ機能を果たしているように思える。
 日本の農業改革は昔から叫ばれているが、特に改革が進まないのは農地の集約化と農業への企業参入である。
 これら政策は、契約講に代表されるような農村の契約集団、すなわち農村の権威を担保する機能そのものの変革を迫るため、受け入れ難いものになるのであろう。

 もし、そのような政策を進めようとするならば、農村にある契約集団の保守性と継続性を担保しつつ、その集団から代表者を選出して機能集団を組織し、改革を担わせる、といった手法が必要なのかもしれない。
 と言っても、その手法そのもので生まれたのが、農村票を担保として存続した自民党政治だったのかもしれない。

  
【記:平成23年9月13日】


 山本七平著「日本人とは何か。」をテキストに、日本社会及び日本の農村社会の構造を考察しております。テキストを要約した部分を茶文字で、本ブログ著者の所見につていは青文字で記載しております。

| 「日本人とは何か」を読む | 22:23 | comments(0) | - | pookmark |
3章 律令制の成立
◆科挙の不採用

・日本の律令制で特徴的なのは科挙を実施しなかったことだが、これは単に当時の日本に、それを行うだけの漢学的教養の裾野が狭かっただけのことである。


 山本七平氏にしては珍しくあっさりと結論づけている。
 科挙は人を登用する際の基準となるが、科挙以前に、既に日本人には別の登用基準があり、それゆえに科挙が採用されなかっとは考えられないか?



◆班田収授法

・班田収授の法は律令制度の基本となるが、人口が増加すれば、それに応じて農地を増加させねばならない。

・また人民も口分田を受ける公民となって租庸調の公的負担を負うよりも、無戸籍人となり植地に潜り込むほうが負担が軽く、早晩、班田収授法は崩壊する運命にあった。

・ただし、この法により農地開墾が進んだのも事実である。


 以下、班田収授法の成立と終わりまで経緯を記載するが、この法が機能したのが実に短い期間だけだったことがわかる。



646年 大化改新にて戸籍、計帳ととに班田収授法の必要を説く

670年 戸籍作成

689年 飛鳥浄御原令により班田収授法が施行される?

701年 大宝律令により本格的に班田収授法が施行される。

733年 主として奥羽の地を対象とする「百万町歩開墾計画」が構想される。

→開墾の負担から逃げ出す農民が多く、企画倒れとなる。

723年 百万町歩開墾計画の実現のため「三世一身法」が成立し、灌漑施設(溝や池)の新設による墾田は3代まで私財化が認められる。

743年 一層の墾田を進める田ため「墾田永年私財法」が成立。

765年 墾田永年私財による富豪、大寺院の墾田私有化が加熱したため、太政官符の発布により墾田私有を禁止。

772年 大寺院や藤原氏など富豪の圧力により、墾田私有が許可となる。

桓武天皇(781年〜806年)6年1班を12年1班に改め、班田収授の維持を図る。

902年 後醍醐天皇による班田が、最後の班田となった。




(班田収授法の崩壊の背景)
 人口が増加すれば、配分農地の不足により、班田収授法は崩壊することはよく理解できるし、その農地を確保するために、盛んに蝦夷征服が試みられたとも想像できる。

 しかしながら、蝦夷征服が困難を極めたとしても、それにより班田収授法が崩壊したわけでもなさそうで、そもそも寺社や富豪に免税的特権を与えた荘園認めている時点で、班田収授の継続的徹底には無理があったようである。それにしても、なぜ、そういった寺社や富豪が特権的な立場にありえたのか?

(近代〜現在の農地動向)
 話は変わるが、現在の日本において、班田収授法は施行されていない。これは当たり前のことだが、一方で、近代以降の農地情勢は班田収授法の経緯とやや似たような歴史を辿っているように思える。

 明治の地租改正により農地は農家個人所有物として法が担保したが、その後、農地は特定地主に集積されていく。特に第一次大戦後の経済的不況は、土地持ち農家から農地を奪い、彼らを小作人に陥らせた。このため、昭和初期頃から、自作農創出を目的とした農地開墾事業が盛んに行われるようになる。また満州事変の遠因にも、蝦夷征服に似た、新たな開墾地獲得といった目的があったように思う。

 第二次大戦後の農地解放は、小作人となった農家を再び土地持ち農家に復帰せしめたが、平成に入り再び農地は集約化に動く。もっとも、戦前の農地集約が土地の所有権の集約化だったのに対し、平成以降のそれは、耕作作業の集約化といった違いがある。




◆権威と権力の分立


・日本の律令制度で特徴的なのは、権力を司る太政官に並列し、祠祭を司る神祗官を設けたことである。

・これにより常に権力は権威と分離され、この体制は幕府体制まで引き継がれる。

・祭儀権を重用する傾向は、卑弥呼の時代から見られる。


(変わる農業政策と換わらぬ農村刊行)

 
 権威とは「正しきこと」の拠り所であろうし、権力とは「変化に応じて他を従わせる」力であろう。

 先に、明治〜平成の農地動向に注目した農業政策の変化を記載したが、このような時代の変化を農民に従わせようとする農業政策は権力により為される。

 → 太政官に相似?

 一方で、農村に暮らす人々にとっての「正しきこと」とは契約講に代表されるような、昔から営まれている社会慣行が拠り所であり、これは農村の氏神的な神社などや仏事など宗教的権威により担保される。

 → 神祠官に相似?
  
【記:平成23年7月9日】


 山本七平著「日本人とは何か。」をテキストに、日本社会及び日本の農村社会の構造を考察しております。テキストを要約した部分を茶文字で、本ブログ著者の所見につていは青文字で記載しております。

| 「日本人とは何か」を読む | 10:50 | comments(0) | - | pookmark |
1章 日本人とは何か
◆縄文から続く食文化

・食文化については、現在でも日本人は縄文時代の伝統を引き継いでいる。

 日本人は世界各国の食文化を楽しんでいるが、現在でも縄文の伝統を引き継ぐ食文化を堅持している。保守と革新が両立しているのが特徴である。



◆稲作文化はなぜ急速に広まったのか?

・稲作の特徴は、それを行うために共同作業が必要なことである。であるならば、弥生時代に急速に稲作文化が広がったのは、その共同作業を行うための社会的素地が既に備わっていたと考えるべきある。

 つまり、稲作以前の縄文の時代に、共同作業を受け入れるだけの社会的慣習が出来ていたと考えられる。これは、通常の学説に一石を投じる考えであろう。と言うのは、縄文時代には、社会制度などが無い、階級の無い社会であった言われることが多いからである。

 一般に、稲作文化の浸透により、単純で素朴、あるいは平等で階級(社会的役割分担?)が無い縄文時代の社会が変質し、階級が出来たと言われているが、そうではなく、既にそういった社会慣習があったからこそ、稲作文化が急速に広まったとする考えである。

 仮にそうだとするならば、食と同じく日本社会の独特な構造は、すでに縄文時代に、その素地が出来上がっていたとも言えるかもしれない。
 
 
【記:平成23年7月9日】


 山本七平著「日本人とは何か。」をテキストに、日本社会及び日本の農村社会の構造を考察しております。テキストを要約した部分を茶文字で、本ブログ著者の所見につていは青文字で記載しております。

| 「日本人とは何か」を読む | 10:08 | comments(0) | - | pookmark |