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自然栽培の田力の米
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 自然栽培米のお届け

【2012年産の新米 出荷開始】

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 いにしえの品種、その野性味が自然栽培でよみがえります。
宮城県色麻町から

【2012年産の新米 出荷開始】

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 自然栽培のササニシキを天日干しにしてみました!おてんとの味わいをお楽しみください。
宮城県色麻町から

【2012年産の新米 出荷開始】

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 でんでんむしむしカタツムリ、自然栽培の六次産業を目指します!
宮城県石巻市和渕から

自然素材の農業資材
工場は津波で流された。だけど竹チッパーは10トン車の下から発掘できました!

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田力ノート

無農薬、無肥料稲作栽培の記録から
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総督府治下の朝鮮農村部(主な農産物)
以下、「大東亜共栄圏と農業」より引用

☆   ☆   ☆   ☆   ☆


 また農作物の主なものには、

【米】 米は半島農産物中、第一に位する重要品で半島人が日常の糧食として消費する高は莫大であるも、なお内地に移出する高もまた第一位にある。就中慶尚・全羅の南部の地、その産出多く、黄海・忠清・京畿これに次ぎ、北方の地方最も少なし。

【麦】 大麦・小麦を主とし、燕麦これに次ぎ、裸麦は少し、大麦らは春蒔・秋蒔ありて、京城以北は春蒔多く、以南は秋蒔多し、小麦は秋蒔、燕麦は春蒔多く山間狭溢の地に栽培するもの多し。

【綿花】 綿は江原道の東沿岸および咸鏡道を除く外各地ぼとんどこれを栽培せざるなきも、全羅・慶尚の両道は産地にして、忠清南北両道に次ぐ、綿質繊維長くして弾力に富み、各種の用途に適する、近年米国種・陸地綿の栽培盛んになり、内地に移出する量漸次増加しつつあり。

【煙草】 半島における特殊農産物の最も重要なるものである。全道至るところ、その栽培を見ざる無く、京畿・平安・江原・忠北・全北・慶南・黄海の諸道は何れも主産地に属し、これら主産地には専門の技術官を派遣し、改良発展に奨励している。又各地に煙草試験場および専売所を設置している。

【人参】 薬用人参は半島の名産で、至る所に産する古来高麗参と称し、世界に尊ばるるは京畿道開城附近に産するものに限っている。故にこの地方は古くより人参栽培盛んに行はれ、従って耕作法も大いに進歩している。当局においては紅参専売法を施行してその栽培を奨励している。

【果実】 半島の風土は極めて果樹生育に適しているので、京城・仁川・釜山・大邱・太田・半塘・三浪津等初め、各地果樹栽培に従事するもの多し、桃・梨・芋果・柿・ナツメ、その他良品を生産している。

【畜産】 牛は農耕に使用し、運搬用を兼ね、肉用として需要を極めて多く、又乳牛も到処に飼養す。体格偉大・体質強健にして、しかれども性質温順なるを以て、児童もよく之を牧御し得べく、其の価格もまた廉にしてかつ使役及び肉用に適するを以て内地に移出し、ソ連・支那に輸出している。
 馬は体格矮小なれども比較的力強くよく険路峻阪の跋渉に耐へ、主として運搬・耕用に利用せられ、性温順なれば子供もよく之を牧御し得るのである。
 ロバは乗・駄兼用に両用するもその数少なし、
 豚は普ねく飼養せられ、牛と同じく到る処見させるなし、其の生産・牛に次ぐ、体格矮小、晩熟にして品種優良ならざるも近来大に改良したいり、多くは冬季の食用とし、剥皮すること無く熱湯を注ぎて毛を去り、食するのである。
 その他山羊・家禽・密蜂等の飼養も近来盛んとなる。

【蚕業】半島における家蚕業は古来より行われたるも僅かに自家用に過ぎざりしが、総督府の奨励により、近来大に発展して内地同様在来の面目を一新するに至った。社会の各種階級を通じて簡易適切なる副業なるを以て、将来各般の発達を見ることは明らかである。
 作蚕業は従来ほとんど経営するもの無かりしが、近来当局の指導奨励により、多数の飼育者を見るに至り、さの産額大に増加し、将来有望の産業となっている。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆


出典)「大東亜共栄圏と農業」/谷本亀次郎 著/昭和16年10月6日発行/秦文館



 田んぼに関わる専門用語と、田力つながりで用いている用語を解説します。
 下記の説明文中「黒」で記す部分は一般的な認められた事項を、「青」で記す部分は、本ブログ著者が解釈している事項を記載しております。

| 稲作の歴史 | 14:17 | comments(0) | - | pookmark |
総督府治下の朝鮮農村部(その風土と歴史)
以下、「大東亜共栄圏と農業」より引用

☆   ☆   ☆   ☆   ☆


 朝鮮半島は南北250里・東西約60里あり、北部の森林帯を除きては地は概して禿山多く、一見る耕作地に乏しきがごときも、その間に沃野、肥田また決して少しとせず、気候また農作物に適し、とくに南部の諸地方は生育佳良にして、米作地として将来非常に有望である。

 中部地方においては冬季梢寒気酷烈なることありといえども、キビ類のごとき冬作物の腐敗する恐れなく、かつ四月以降は気温昇るが故に生育良しく、また空気乾燥せるを以て収穫物の品質が良好である。

 なお夏作物中水稲のごときは風土よりいへばその生育良好なるべきも、未だ用水の設備完備せざるところもあって挿秧(田鴨 注)「田植え」の意味)意のごとくならず、あるいは旱害を被ることあり、水害を被ることもあるも、近年総督府の保護・奨励・指導の効果多いに顕はれ、総ての農事において内地とさして変わらざる程度に進歩したる地方も見受くるに至れるは喜ぶべきことである。

 しかしそのごとく半島の農作物生育に適するにも拘わらず、従来久しく満目荒涼の感ありて開発の後れしゆえんのものは、けだしその理由とする処、半島人の自覚足らざりしによるものである。

 由来半島人は久しく太平を夢み、遊楽に耽り、惰眠をむさぼるの因襲によりて、旧慣墨守を敢てし、何等改良進歩の途を講ぜず、只自然のままに委するのみであったからである。

 しかし又人煙稀疎にして生活程度低く、組織粗放なりしを以て、萬難を排してこれが開拓に努力するの必要も無かったからであろう。又一方においては彼等の知識・技術及び資本乏しく、加うるに旧時は国法備わらず、官吏は不法にして良民を虐げ、所有権の保持にも困難ありしを以て、自然に土地は荒廃に帰せしものであろう。

 従って農家の収入はその勤労に比して甚だ少なく、特に農民の窮乏は金肥の購入すら不可能ならしむるのみならず、封建的農業経営の慣習からも肥料の使用は極めてわずかであると共に多角的経営としての副業に対する知識と設備を欠くことも朝鮮農業の一つの欠陥に数えなければならないのである。

 さらに農民生活においては7月以後、秋の収穫までの端境期はほとんど米食をなさず、その多くは雑穀ないし野生の草根・木皮によって生活を維持するがごとき状態である。これは農民が幾多の使途に追はれて現金収入を必要とし、米の大部分を収穫と同時に売却するからに外ならない。

 これに対する更生計画ももちろんたてられているのである。また火田整理年次計画等も進められ、未開墾地利用から、水利を開き農法の改良等も奨励されている。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆


出典)「大東亜共栄圏と農業」/谷本亀次郎 著/昭和16年10月6日発行/秦文館



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| 稲作の歴史 | 13:57 | comments(0) | - | pookmark |
大正時代の台湾稲作
以下、「米問題と農村」より引用

☆   ☆   ☆   ☆   ☆


 台湾米作は往古藩人の耕作せしものなるも、支邦人の移住以来漸く開発せられたものなりという。
 明治30年、わが領土に帰したる後は、官民共にこの米作に力を注ぎし結果、著しき発展を見るに至りたり、今作付反別及び収穫高を示せば、

 年次   作付け反別 収穫高

明治32年 340千甲歩 2,050 千石
大正 元年 496千甲歩 4,046 千石
 同 二年 510千甲歩 5,126千石
 同 三年 515千甲歩 4,608 千石
 同 四年 506千甲歩 4,785 千石
 同 五年 486千甲歩 4,649 千石
 同 六年 481千甲歩 4,834 千石
 同 七年 488千甲歩 4,632 千石
 同 八年 492千甲歩 4,820 千石


備考:1甲歩≒0.97町歩、作付反別の内二期作に適する水田約6割を占めるという。



 台湾は其の位置熱帯地に属し気温甚だ雨量亦潤沢にして二期の作付に適す。しかして一期作は5月より11月までとす。

 大正12年の収穫の収穫は一期作に於いて3,594,527石、二期作において2,264,870石、合計5,859,397石なりという。ただし、二期作面積は11年度291,481甲歩、12年度291,009甲歩なりとす。

 台湾人口は総計3,753千人にして中、内地人149千人、台湾人3,497千人、外国人21千人、藩人86千人なり。 米の消費量は356万万石(一人平均 9斗5升)にして、移出余力は平年230万石なりという。

☆   ☆   ☆   ☆   ☆


出典)「米問題と農村」/栗城精一著/大正14年1月20日発行/丁未出版社



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| 稲作の歴史 | 12:41 | comments(0) | - | pookmark |
日本の稲作の歴史2(弥生時代)
◆確実な水田稲作の遺跡
 紀元前5百年前頃からは福岡県の菜畑遺跡や板付遺跡などから水田跡や農具などが発見され、この頃までには、ほぼ確実に現在に連なる作が始まったと考えられる。

◆中国との関係
 中国では、紀元前5千年頃には長江流域で既に稲作が始まっており、この地域に興隆した文明は呉や越国として発展したが、呉は越国に滅ぼされ(紀元前473年)、越は内陸部から勢力を拡大した楚に滅ぼされている(紀元前334年)。
 その後、越人は中国南部やインドシナ半島に拡散していったようであるが、これらの一部が海を渡り、日本に渡来して稲作を伝えたとの説がある。そして菜畑遺跡や板付遺跡で水田が営まれた時代は、呉が滅亡した時代とほぼ一致する。
 
◆木製農具と水田稲作 
 弥生時代中期までの農具は木製を主とするが、この鍬や鋤は軟弱で、佐藤洋一らの試みでは復元した木製鍬は簡単に折れ、水田の耕作ができなかったとのことである(参考文献1)。中国でも呉越が興隆著しかった春秋時代では木製農具が主流であったから、これら農具はやはり耕作に利用されていたと思われるが、鉄製農具に比べれば著しく使いでの劣ったものだったろう。
 とは言え、当時の水田はいずれも低湿地にある。このため水田耕作が「土を耕す」というよりも、「泥を掻き均す」程度の作業であったなら、木製農具でも十分に水田耕作が行えたのかもしれない。
 
◆木製農具の限界
 低湿地での耕作が可能な木製農具であっても、扇状地の開墾や灌漑水路の掘削は困難である。そして弥生時代、河川からの流砂が形成する低湿地はあまり育ってはおらず、現在に比較して狭小であった。このため日本にもようやく水田稲作が萌芽したとは言え、それは限られた地域でしか行うことが出来ず、より幅広い地域に広がるためには、鉄製農具の到来を待たねばならなかったであろう。




 弥生時代中期以後(紀元前100年頃)、次第に鉄製農具は普及し、それとともに水田可能域も拡大した。そして水田の増加は、人口の増加をもたらし、次第に大規模土木工事を可能とする社会条件が揃っていく。(参考文献2)
 
◆弥生時代の水田雑草
 板付遺跡や菜畑遺跡からは、現在でも普通に見られるホタルイコナギオモダカといった水田雑草が見つかっている。(参考文献3)

【記:平成21年1月3日】
 
▼ 参考文献1
 「稲の日本史」 佐藤洋一郎 著
  (平成14年6月30日 角川書店発刊)
▼ 参考文献2
 「日本の人口と増加の歴史」  本間俊郎 著
 (平成2年3月5日 山海堂発刊)
▼ 参考文献3
 
「弥生時代の知識 」 甲元 真之、山崎 純男  著 
 (昭和59年4月1日 東京美術 発刊) 
   

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| 稲作の歴史 | 01:37 | comments(0) | - | pookmark |
日本の稲作の歴史1(縄文時代)
みつからない水田跡と農具
 日本の稲作がいつから始まったかを考える場合、土壌に堆積したプラントオパールや土器に残された「稲の籾らしき跡」から、その可能性を縄文時代晩期の紀元前3〜2千年前頃まで遡ることができる。ただし見つからないのがこの時代の水田跡や稲作にかかわる農具である。
 このため、例え「稲の籾らしき跡」やプラントオパールが見つかったとしても、それだけでは稲作が行われていた証拠とはならないとする考えがある。(参考文献1)

◆焼き畑陸稲の可能性
 その一方で、水田や農具が無くとも、焼き畑による陸稲栽培であれば、稲作はできるとする考えがある。確かに東南アジアでは焼き畑による陸稲栽培が営まれる事例はある。
 しかし日本の焼き畑作(昭和30年代まで行われていた)で陸稲が播かれたとの記録は見つからない。そしてまた稲作の起源を考えた場合、稲作は焼き畑ではなく、始めから水田から始まったとする考えがある(参:稲作の起源)。さらにインディカ種を別とし、稲は野生種に近づくほど多年生の性質を強くし種子の発芽(参:稲の発芽)は不安定となるから、直播きを主とする焼き畑栽培とは相性が悪い。このため苗代といった特殊な環境を用意しなければ、なかなか稲の育苗はできるものではない。
 これから考えると、仮に縄文時代に焼き畑が行われていたとしても、やはり陸稲は播かれていなかったとの印象を強くする。いずれにしても紀元前3〜2千年前頃の縄文遺跡からは、未だ明確に稲作が行われたとする遺物は見つかっておらず、仮に稲作が行われていたとしても、それは現在に連なる「稲作」とは大部様相の異なったものであったと想像される。
 
◆縄文海進
 ここで視点を変え、縄文時代の気候と水田のか関係を考えてみる。縄文時代は紀元前1万年前から紀元前500年まで続いたとされるが、この期間、地球の気候は大きく変動している。
 七万年前から続いた最終氷河期は1万年前に終了し、その後、紀元前4千年頃まで気温は大きく上昇した。これに伴い海水面も急激に上昇し、前田保夫「大阪湾の自然史」(1977)の研究によると、瀬戸内海は1万年前から6千年前(紀元前4千年前)までの4千年間に32mほど海面が上昇している。これを縄文海進と言う。


 


◆平坦地の出現
 この期間、河川からの流砂により形成される平坦地は、それが育つ毎に海水面の上昇で海没したと思われる。その結果として海没していく平坦地は遠浅の海を作り出し、魚介類豊かな自然を形成して縄文文化を開花させた。
 紀元前4千年以降は現在よりも3mほど海面が高かったが、その後、幾度かの下降・上昇を繰り返し、海水面は次第に現在の高さに近づく。世界最古と言われる稲作跡は中国の長江流域で見つかっているが(参:稲作の起源)、これは紀元前5千年で縄文海進が終焉する1千年ほど前となる。なお最古の水田跡は、同じ中国の草鞋山遺跡参:水田の起源で、これは起元前4千年である。
 日本列島は中国長江流域に比較して地形が急峻であり、そのため海面上昇の終焉する紀元前4千年を待たなければ、水田を行おうにも、それが出来る場所は限られていたであろう。それ以降は低平地や低湿地が形成され、これが日本における稲作萌芽の重要な要素になったと思われる。





◆神話から考える縄文期の農業と稲作の始まり

 「日本語はいかに成立したか」で大野晋は、瓜子姫の民話から縄文期の農業を推測している。この民話は日本各地で様々な差を生じながら伝えられるが、それら共通項を取り出せば、より古い時代の原型を復元でき、民話が変遷過程が推測できる。この変遷過程は以下のようである。

(第一次:イモ栽培の始まり)
 この民話の原型に近いものに瓜子姫が天の邪鬼に食べられ、切り刻まれた体の一部が土に埋めらるとした部分がある。神話学者はこれをイモの株分け栽培と関連させ、瓜子姫の民話はそもそもイモ栽培を意味しているとしている。この株分け栽培は稲作の起源と併せ考えても興味深い。

(第二次:粟・稗栽培の始まり)
 その後、天の邪鬼が殺され、その血で稗・粟が生まれとする内容が追加される。これは粟稗栽培の始まりを示唆する。

(第三次:稲作の始まり)
 さらに、日本書紀にはウケモチノカミの死体、各部位から稲を含む各種雑穀と蚕が生まれるといった神話がある。これは内容的に瓜子姫民話の系統を引き継ぐ神話で、ここで始めて瓜子姫の民話にが登場する。

 以上の瓜子姫神話の変遷から考えても、稲作はイモ栽培や粟・稗栽培に比較して、より遅い時代に日本に渡来したことが推測できる。

【記:平成20年12月29日】

◆ニューギニア人と米
 以下は本ブログ著者が、ニューギニアで農業支援に携わった知人から教えてもらった話である。
 もともと焼き畑のイモ栽培を主食とするニューギニア人の一部では、米食が急速に普及しつつあるとのことだ。米食が普通の日本人には気が付かないことだが、イモ食主体のニューギニア人にとって、米食は麻薬にも似た強烈な魅力があるらしい。
 しかしながら、そういったニューギニア人の多くは稲作をするわけでなく、豪州産米を購入している。結果、米食を理由とした借金に陥るニューギニア人が絶えないと言う。
 この事例から考えれば、縄文晩期にしばしば発見される炭化米も、これと同様に他国から運ばれた遺物であった可能性が捨てきれない。
 なお隣国のインドネシアでは焼き畑による陸稲栽培が営まれているが、ニューギニアでは焼き畑はあるが陸稲は無いとのことである。
 またインドネシアの焼き畑陸稲は、人口増を理由としてか焼き畑サイクルが短くなり、森林荒廃の一因とされる。しかしニューギニアではサイクルが長く、良く森林は保全されているという。このためインドネシア人がニューギニアを訪れて驚くのは、焼き畑森林の土壌が、インドネシアのそれに比較して、とても良く肥えていることである。この違いは焼き畑サイクルの長短に起因するようである。

【記:平成21年1月3日】
 
▼ 参考文献1
   「稲作の起源」  池橋宏 著
 (平成18年12月10日 講談社 発刊)
▼ 参考文献2
  「日本語はいかにして成立したか」 大野晋 著
 (平成14年4月15日 中央公論新社 発刊)

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| 稲作の歴史 | 02:14 | comments(0) | - | pookmark |
水田の起源
  世界最古の水田跡は草鞋山遺跡で発見され、紀元前4千年前に遡る。水田という稲作に特化した圃場がどのようにして成立したかは明らかにされていないが、もともと水田は稲の圃場ではなく、イモ栽培の圃場であったとする説がある(参:稲作の起源)。この場合の圃場は、水が湛えられていることに加え、多年生の植物が株分けにより移植されるという特徴を持つ。

 元来、稲は多年生の性質を持ち(参:野生稲)、そしてまた湿性の植物であるから、その栽培は稗や麦といった雑穀よりも、サトイモやクログワイといった根菜類と相性が良い。このような理由から、水田もまた雑穀栽培を種とする山地の焼き畑ではなく、水が滞りがちな低平地に起源が求められそうである。

【記:平成20年12月28日】

▼ 参考文献
   「稲作の起源」  池橋宏 著
 (平成18年12月10日 講談社 発刊)


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| 稲作の歴史 | 13:08 | comments(0) | - | pookmark |
稲作の起源
 野生稲がどのような経緯をたどって栽培化に至ったかについては、相反する二つの説がある。

◆焼き畑起源説(山間地、中国雲南起源説)
 一つめは焼き畑で栽培される雑穀品種の一つに稲があったとする説で、特に中国雲南地方といった山間地の焼き畑に起源を求める。この説は雲南地方に野生稲の品種が多いことからも裏支えされる。
 しかしながら稲作遺跡に着目すれば、雲南地方の遺跡は紀元前2千4百年程度にしか遡れない。それに対し、中国の長江下流部といった低平地で紀元前5千年頃まで稲作跡が遡れ、しかも大規模である。このことから長江下流部では雲南地方よりも先に大規模な稲作が行われていたと考えられる。
 そもそも稲は湿性を好む植物である。そして栽培上の特徴を述べれば、直播き栽培に不向きであり、この特徴からも、乾地の焼き畑における直播き栽培から稲作が始まったとするのは考えにくいとの指摘がある。
 
◆根菜農耕起源説(低湿地、中国南部、インドシナ北部説)
 もう一つの稲作起源説は、「根菜農耕」に稲作の起源を求める。これは稲作の苗を植えて栽培するという移植栽培に注目し、これが中国南部〜インドシナ北部の低平地で営まれるサトイモやクログワイなどの根菜農耕との類似性に着目して提唱された説である。
 野生稲の多くは多年生の性質を持ち、その意味からも、同じ多年生であるイモの株分け栽培の延長で稲作が始まったと考えるのは自然である。
 そしてまた、中国南部〜インドシナ北部のサトイモ、クログワイ栽培を観察すれば、これらは水たまりのような場所で営まれ、稲作と併せ水田の起源さえ説明することができそうである。
 以上に加え、中国の長江下流部といった低平地では7千年前の大規模な稲作跡が多数、発見されており、さらにこの説を補強する。
 
【記:平成20年12月28日】
 
▼ 参考文献1
   「稲作の起源」  池橋宏 著
 (平成18年12月10日 講談社 発刊)

▼ 参考文献2
   「稲の日本史」 佐藤洋一郎 著
  (平成14年6月30日 角川書店発刊)

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