2009.10.25 Sunday
丹取郡(にとりぐん)
8世紀前半の日本の陸奥国(後の陸前国)に置かれた郡。現在の大崎市西部地区(旧玉造郡)に置かれたものと推測されているが、はっきりした場所は不明。 宮城県北地方では最も早い時期に置かれた郡とされる。
▼続・日本紀の記録
713年 新しく陸奥国に丹取郡を建てた
728年 陸奥国が新たに白河の軍団を設けた。また丹取軍団を玉造軍団と改称することを申請した。何れもこれを許可した。
▼丹取郡の位置の比定
「丹取軍団を玉造軍と改め」とあるが、従来まで、丹取郡は玉造地方(宮城県旧岩出山町、旧鳴子町)周辺ではなく、現在の名取市周辺にあると考えられていた。
これは征夷総督府といった趣の多賀城より先に、その北方に郡が置かれるのは不自然であるといった理由からであり、「丹取(ニトリ)」の名称もまた「名取(ナトリ)」の誤記であると捉えられていた。
しかしながら、奥羽山脈の反対側である出羽地方を眺めれば、
712年 陸奥国の最上と置賜の二郡を割いて、出羽国に附けた。
と「続・日本紀」にある。これは陸奥国府が多賀城に移転(724年)するより早い。そして最上郡は現在の玉造地方に隣接しているから、
「名取地方」→「多賀城」→「玉造」 といった南から北への流れとは別に、
「最上」→「玉造」といった西から東への
奥羽山脈を越える「大和化」の流れがあったとするなら、多賀城より早い時期に「丹取郡」が現在の玉造地方に置かれたとしても不思議ではない。
さらに、玉造地方と古川市の境界付近には「名生館官衙遺跡」がある。この遺跡からは多賀城より古い7世紀末頃の四面庇付瓦葺の建物を中心とする官衙中枢部が発見されている。この事実は、丹取郡がやはり玉造地方にあったとの印象を強くさせる。
いずれにしても、現在では丹取郡は名取地方ではなく、玉造地方(旧古川市にほど近い場所)にあったとするのが、現在の通説となっている。
▼丹取郡の地名の由来(湿地に囲まれた場所か?)
丹取と名取が別の場所にあったするならば、地名についても「丹取(ニトリ)」と「名取(ナトリ)」は別名であると受け取ることができる。
一般に名取(ナトリ)はアイヌ語の「ニタッ(湿地)ウトリ(間)→ニトゥトリ」に由来すると言われることが多いが、その解でいくならば丹取(ニトリ)のほうがより「ニトゥトリ」に響きが近い。
もっとも、「ニトゥトリ」的地名は他にも多く、丹取郡が分割して置かれたと推測される新田(ニッタ)柵(地元では「ヌッタ」と発音、現在の登米市西部、続日本紀737年初出)や、新潟市の渟足(ヌッタリ)柵(同647年初出)がある。
また岩手県の二戸地方には、似鳥(ニタドリ)があり、これはさらに「ニトゥトリ」と響きが近い。
次に、「ニタッ(湿地)ウトリ(間)」といった地名の意味、つまり「湿地に囲まれた場所」といった地形の特徴を考えれば、名取市近辺は低平地で名取川といっ規模の大きい河川もあり、川に形成された後背湿地も多くあっただろうと推測される。このため名取=「湿地の囲まれた場所」はうなずくことができる。
新潟の「渟足柵」も信濃川の河口付近にあったとされるので、これも名取と同様の例であろう。
玉造の「丹取」については、近隣に江合川や鳴瀬川といった大河川はあるにはあるが、低平地と言うよりは扇状地に近く、地形と地名の整合はちょっと弱い。ただし、もう少しだけ東方に目を向ければ、そこに化女沼があるから「湿地に囲まれた場所」と言えなくもない。
登米市西部の「新田」付近は北上川水系が盲腸のように後背湿地を形成する一大湿地帯で、現在でも水害の被害を受けやすい地域である。そして伊豆沼、内沼、長沼、蕪栗沼といった湖沼群があるから、これはまさに「湿地に囲まれた場所」と言って良いだろう。
二戸の「似鳥」については、残念ながら、その地形の特徴を語るだけの知識は無い。
このように、いずれの地名も「ニタッ(湿地)ウトリ(間)」で解けなくもないが、そもそも日本は「豊葦原の国」であり「湿地に囲まれた場所」は数多くある。そのため、先に紹介した地名が「ニトゥトリ」であるかどうかは、地形との関係以外にも、もう少し別の角度から検証材料がほしいところではある。
アイヌ語地名の本場、北海道では弟子屈町に「仁田(ニタ)」という地名があり、これはそのまま湿地と解されている。
(出典)北海道庁/アイヌ語地名リスト
▼丹取郡の地名の由来(赤土粘土の土取場か?)
先に、丹取の地名由来をアイヌ語で考えてみた。これは「丹取」の音からのアプローチであるが、一方で「丹取」という文字を表意的に考えれば、「丹土(はに=陶瓦の材料としての粘土、赤土)を取る場所」とも解される(「奥羽古史考証」藤原相之助著)。
本ブログ著者は、丹取という地名にはアイヌ語由来説を採るが、この赤土土取場説も魅力的であり、心から離れない。
というのは、かつて丹取郡があっとされる玉造地方の周辺には、奈良時代前半における陸奥国最大の官窯と言われる色麻町の「日の出山瓦窯跡」や大崎市古川の「大吉山瓦窯跡」があるからである。先に紹介した「名生館官衙」や「多賀城」もこれらの瓦窯から生産された瓦を用い、建立している。
以後、これら諸郡は宮城県の行政区域として現在まで引き継がれることになるが、このような急速とも言える変化が生じた原因として注目されるのが、
715年 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の、富裕な民1千戸を陸奥国に移し住まわせた。
といった記録である。
このような過程を経て、「まつろわぬ(服従せぬ)」蝦夷の地は、次第に大和文化に取り込まれいったのであろう。
【記:平成21年10月25日】
▼参考文献
「続・日本紀(上)」 宇治谷 孟 訳
(平成4年6月10日 株式会社 講談社 発刊 )
「宮城県地名考」 菊地勝之助 著
(昭和45年5月15日 株式会社 宝文堂 発刊 )
田んぼに関わる専門用語と、田力つながりで用いている用語を解説します。
下記の説明文中「黒」で記す部分は一般的な認められた事項を、「青」で記す部分は、本ブログ著者が解釈している事項を記載しております。

色麻町「念南寺古墳」付近の高台から、丹取郡比定方向を眺める
▼続・日本紀の記録
713年 新しく陸奥国に丹取郡を建てた
728年 陸奥国が新たに白河の軍団を設けた。また丹取軍団を玉造軍団と改称することを申請した。何れもこれを許可した。
▼丹取郡の位置の比定
「丹取軍団を玉造軍と改め」とあるが、従来まで、丹取郡は玉造地方(宮城県旧岩出山町、旧鳴子町)周辺ではなく、現在の名取市周辺にあると考えられていた。
これは征夷総督府といった趣の多賀城より先に、その北方に郡が置かれるのは不自然であるといった理由からであり、「丹取(ニトリ)」の名称もまた「名取(ナトリ)」の誤記であると捉えられていた。
しかしながら、奥羽山脈の反対側である出羽地方を眺めれば、
712年 陸奥国の最上と置賜の二郡を割いて、出羽国に附けた。
と「続・日本紀」にある。これは陸奥国府が多賀城に移転(724年)するより早い。そして最上郡は現在の玉造地方に隣接しているから、
「名取地方」→「多賀城」→「玉造」 といった南から北への流れとは別に、
「最上」→「玉造」といった西から東への
奥羽山脈を越える「大和化」の流れがあったとするなら、多賀城より早い時期に「丹取郡」が現在の玉造地方に置かれたとしても不思議ではない。
さらに、玉造地方と古川市の境界付近には「名生館官衙遺跡」がある。この遺跡からは多賀城より古い7世紀末頃の四面庇付瓦葺の建物を中心とする官衙中枢部が発見されている。この事実は、丹取郡がやはり玉造地方にあったとの印象を強くさせる。
いずれにしても、現在では丹取郡は名取地方ではなく、玉造地方(旧古川市にほど近い場所)にあったとするのが、現在の通説となっている。
▼丹取郡の地名の由来(湿地に囲まれた場所か?)
丹取と名取が別の場所にあったするならば、地名についても「丹取(ニトリ)」と「名取(ナトリ)」は別名であると受け取ることができる。
一般に名取(ナトリ)はアイヌ語の「ニタッ(湿地)ウトリ(間)→ニトゥトリ」に由来すると言われることが多いが、その解でいくならば丹取(ニトリ)のほうがより「ニトゥトリ」に響きが近い。
もっとも、「ニトゥトリ」的地名は他にも多く、丹取郡が分割して置かれたと推測される新田(ニッタ)柵(地元では「ヌッタ」と発音、現在の登米市西部、続日本紀737年初出)や、新潟市の渟足(ヌッタリ)柵(同647年初出)がある。
また岩手県の二戸地方には、似鳥(ニタドリ)があり、これはさらに「ニトゥトリ」と響きが近い。
次に、「ニタッ(湿地)ウトリ(間)」といった地名の意味、つまり「湿地に囲まれた場所」といった地形の特徴を考えれば、名取市近辺は低平地で名取川といっ規模の大きい河川もあり、川に形成された後背湿地も多くあっただろうと推測される。このため名取=「湿地の囲まれた場所」はうなずくことができる。
新潟の「渟足柵」も信濃川の河口付近にあったとされるので、これも名取と同様の例であろう。
玉造の「丹取」については、近隣に江合川や鳴瀬川といった大河川はあるにはあるが、低平地と言うよりは扇状地に近く、地形と地名の整合はちょっと弱い。ただし、もう少しだけ東方に目を向ければ、そこに化女沼があるから「湿地に囲まれた場所」と言えなくもない。
登米市西部の「新田」付近は北上川水系が盲腸のように後背湿地を形成する一大湿地帯で、現在でも水害の被害を受けやすい地域である。そして伊豆沼、内沼、長沼、蕪栗沼といった湖沼群があるから、これはまさに「湿地に囲まれた場所」と言って良いだろう。
二戸の「似鳥」については、残念ながら、その地形の特徴を語るだけの知識は無い。
このように、いずれの地名も「ニタッ(湿地)ウトリ(間)」で解けなくもないが、そもそも日本は「豊葦原の国」であり「湿地に囲まれた場所」は数多くある。そのため、先に紹介した地名が「ニトゥトリ」であるかどうかは、地形との関係以外にも、もう少し別の角度から検証材料がほしいところではある。
アイヌ語地名の本場、北海道では弟子屈町に「仁田(ニタ)」という地名があり、これはそのまま湿地と解されている。
(出典)北海道庁/アイヌ語地名リスト
▼丹取郡の地名の由来(赤土粘土の土取場か?)
先に、丹取の地名由来をアイヌ語で考えてみた。これは「丹取」の音からのアプローチであるが、一方で「丹取」という文字を表意的に考えれば、「丹土(はに=陶瓦の材料としての粘土、赤土)を取る場所」とも解される(「奥羽古史考証」藤原相之助著)。
本ブログ著者は、丹取という地名にはアイヌ語由来説を採るが、この赤土土取場説も魅力的であり、心から離れない。
というのは、かつて丹取郡があっとされる玉造地方の周辺には、奈良時代前半における陸奥国最大の官窯と言われる色麻町の「日の出山瓦窯跡」や大崎市古川の「大吉山瓦窯跡」があるからである。先に紹介した「名生館官衙」や「多賀城」もこれらの瓦窯から生産された瓦を用い、建立している。
▼丹取郡のその後
713年に設置された丹取郡であるが、続・日本紀によれば
717年以前、陸奥国の管轄する所は、柴田・名取・宮城・志太・黒川・加美・玉造等の諸郡なりとあり、さらに737年、多賀柵、牡鹿柵、新田柵、色麻柵、玉造柵を置くと記されている。このように丹取郡は発展的に分割されていったようである。
717年以前、陸奥国の管轄する所は、柴田・名取・宮城・志太・黒川・加美・玉造等の諸郡なりとあり、さらに737年、多賀柵、牡鹿柵、新田柵、色麻柵、玉造柵を置くと記されている。このように丹取郡は発展的に分割されていったようである。
以後、これら諸郡は宮城県の行政区域として現在まで引き継がれることになるが、このような急速とも言える変化が生じた原因として注目されるのが、
715年 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の、富裕な民1千戸を陸奥国に移し住まわせた。
といった記録である。
このような過程を経て、「まつろわぬ(服従せぬ)」蝦夷の地は、次第に大和文化に取り込まれいったのであろう。
【記:平成21年10月25日】
▼参考文献
「続・日本紀(上)」 宇治谷 孟 訳
(平成4年6月10日 株式会社 講談社 発刊 )
「宮城県地名考」 菊地勝之助 著
(昭和45年5月15日 株式会社 宝文堂 発刊 )
田んぼに関わる専門用語と、田力つながりで用いている用語を解説します。
下記の説明文中「黒」で記す部分は一般的な認められた事項を、「青」で記す部分は、本ブログ著者が解釈している事項を記載しております。
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